ふらりと村に現れ、その男はぼろぼろに壊れた廃寺に住み着いた。
得体もしれなけれりゃあ、名も告げぬ。
やっかいものだと眉をひそめた村人たちを尻目に、まず懐いたのは子供たちだった。
境内で隠れ鬼だの、川で釣りだの。
走ってころんだ子供をおぶって、家まで連れてってやる。
小さなひざこぞうには揉んだ薬草が貼り付けてあって、その辺りから大人も口をきくようになった。
物知りだ。
字も読めりゃあ、経もあげられる。
逞しい身体についた無数の傷を見たか。
何でも、むかしは有名な家に仕えていたとか――――いや、どこぞのご落胤らしいぞ。
噂は噂を呼んだが、そのうちぴたりと収まってしまった。
ひとの噂も七十五日。














もう随分と、遠くまで来てしまった。
こんなところまで来て、自分はいったい何をしようというのか――――それは、男自身にも分からない。
疲れていた。
おのれひとりの口を糊するくらいは易きことだが、そんなことが己の成したいことではない。
迷い、疲れきって男はこの村にたどり着いた。

「…………」

うつくしい村だ。
鄙びてはいるが、整えられた田畑、そして静かなせせらぎが何より男の気に入った。
刈り入れ間近なのか、深く頭を垂れた稲穂が夕刻の陽射しに映えている。

(おれの育った村は、何もなかった)

(ただひどく静かで……田がきれいで……)

たったいちどだけ話してくれた彼、のふるさと、にそこはよく似ていた。

「…………」

ここにしようと男は決めた。
見るところ、学び舎らしきものもない。
ならば文字を教えるだけでも重宝がられるに違いなかった。
あまり教え過ぎれば不味かろうが、己は剣術も教えられるのだし。
ここで、彼、の為したことを伝えたい。
風評で伝わるものなど、尾ひれのつきまくった下らぬ虚飾――――ならば、自分が伝えればいい。
彼、がどれだけ清廉だったか。
彼、がどれだけ義に生きたか。
真実を伝えたい。
この村で生きよう。
どこまでできるかは分からないけれど、できるところまではやり遂げてみせたい。
誇り高く生きた、彼。
どれだけ男は彼、を愛していたことか。
伝えたい。
遺したい。
すべてを伝えて――――そして、この村で死のう。














昼はにぎやかに遊んでいるが、夕刻を過ぎればひとりでぼんやり座っている。
どこか遠い世界を見るような瞳と、深い知性の見え隠れする横顔に、ひとりのおんながほれ込んだ。
村でも評判の器量よしで、まだ嫁いだこともない。
母親はとうに死んでしまって、父と弟たちの面倒をよく見る気立ての良いむすめだ。
村から出たことのないおんなは、何より男の眼差しに惹かれた。
あんな目をしているひと、見たことない。
あんな目をしているひと、村にはいない。
夕焼けに染まった田んぼがまっくらやみへと変わるまで、微塵も動かぬその男。
男の背負う、それは孤独だと。
まだ若いおんなが気付くことはなかった。














庭に、その虫がいることに気付いたのは秋の朝早くだった。
ころころと、うつくしい声でないている黒い虫。
秋の夜にこおろぎの音はつきものだが、朝日の昇る頃までいるとは珍しい。
気を引かれて、側に寄る。

「…………」

ひとを恐れて逃げ出すかと思ったのに、こおろぎは逃げなかった。
翅をすぼめて、じっとそこにいる。
面白く思って、男は腰をかがめた。

「…………」

手を伸ばしても、こおろぎは逃げなかった。
まるで待ってでもいたかのように男の手のひらに乗り、そのまま翅をふるわせている。
逃がしてやろうと離しても、飛び立ちもせず、そこにとどまったままだ。
じわりと胸の中にしみ入る気持ちがあって、男は再びこおろぎを拾い上げる。
つやつやとした翅と、かすかな重さに胸を衝かれた。
お前も、ひとりか。
つぶやくように言った男に、こおろぎはころころ……と澄んだ声で鳴いた。














畑でとれた野菜やら、ひそかにかくしてあった酒やら。
せっせと運ぶおんなの姿は、村人たちにも好ましく映った。
(あの先生、いつまでいてくれるんかのう)
(できれば、ずっとおって欲しいのう)
文字に明るく、薬草の知識にも詳しい。
何より、人里離れたこの村には伝わってもいないような広い世界のことを知る男は、いつしか先生と慕われるようになっていた。
どこへ行くにも、こどもたちがついてくる。
どこへ行ってもにぎやかで、だが男は夕焼けの刻にはいつもひとりだった。
おんなも、近くに寄せない。
(そんな、枯れたとかさ。そんなんじゃあないんですよ)
気にした村人たちの、おそるおそるの問いを男は一蹴した。
(ま、飽きちまったってことですかね)
片頬に傷のある、その男は笑う。
惚れた相手を抱くのはね、俺はもう、一生分をつかっちまったんですよ。














おんながはこんでくる野菜は形は悪いが、ひどく美味い。
胡瓜に味噌をつけたのは、中でも酒の肴によかった。
今夜も手酌でやりながら見る秋の名月、やたらに男は機嫌が良い。

「おまえも、食うか」

驚いたことに、こおろぎはまだそこにいた。
網や籠で捕らえている訳でもないのに、まるで男のそばにあること自体を喜ぶかのように翅を震わせている。
まるで飼い主を慕う犬のようだ。

「ほら」

こおろぎならば、胡瓜は好物のはず。
そう思って投げてやった一切れを、まるで嫌悪でもするかのようにこおろぎは素通りした。

「おいおい」

腹は空かないのか。
手にした盃を傾けた男の言葉が分かった訳でもなかろうに、こおろぎがころ……と高い音を響かせる。

「おい」

飛んだ。
実際は跳んだのかもしれない。
ひょい、と軽い身のこなし。
やるじゃないですか、と不意に言葉は口を出て、男は自分の発した言葉にうなだれる。
その言葉は――――彼、を男に思い出させた。
握りしめたこぶしに、ふと触れる感触。

「…………」

こおろぎが、男の指に止まっている。
いくらひとを怖がらないと言っても、これはやり過ぎだろう。
いささか呆れた男の目の前、再び跳躍したその虫は、見事に男の持つ盃の縁へと着地した。

「……お前」

彼、も胡瓜は好まなかった。
あおくさくて好かぬ、とまるでこどものように。
胡瓜の漬物など食わんでも死んだりせん、茄子のを食うから良いであろう。
ぷい、と背けられたうなじの白さを覚えている。
すまぬ。
もう、呑めぬ。
月を肴に酌み交わした夜も、幾度あったろう。
もっと付き合ってやりたいが、おれは酒には強くないゆえ。
酔うたもの独特の、舌ったらずな声音。
身体を重ねていく男へ、甘やかな睦言に織り込まれるようにして、彼、は言った。
うまれかわったなら、もっと酒が強くなりたい。
もっと――――おまえと、酒をのみたい。














恋を知れば、勘はするどい。
何やら、男の纏う気配が変わったことに、おんなはすぐに気が付いた。
何が違うというのでもない。
ただ、やさしい目をして笑うようになった。
理知にあふれた双眸に、やさしさが加わってしまえば向かうところに敵はない。
笑うと目尻に皺が寄ることも、はじめておんなは知った。
(ええひとやねえ)
(ええひとをみつけたねえ)
周囲にからかわれるほどに恋心はつのっていたけれど、おんなの胸のうちがおさまることはない。
だって、ちがう。
だって――――あのひとは夕焼けを見なくなってしまったもの。














冬が近付いていた。
男がこの村にたどり着いたのは秋のはじめ――――つるべ落としの陽は落ちて、今はもう濃い影が部屋を満たす室の中、男は必死だった。

「おい」

こおろぎが鳴かないのだ。
理屈では、当たり前だと分かっている。
秋の虫がどうあっても冬を越せるはずがない。
それでも、あきらめ切れなかった。

「おい」

あの日見つけたこおろぎ。
それは片時も男の側を離れなかった。
どこへ行くにも付いてきて、夜になればうつくしい音色を響かせる。
やむを得ぬ事情で男が出かけるときも、出てくる、と一声告げさえすれば良い。
まるで言葉を理解しているかのようにきれいな声で鳴いて、逃げる様子も見せずにどうやらずっと男の帰りを待っているらしい。
不可思議さは、いじらしさといとおしさに溶けた。
このいきものを失いたくない――――そんな矢先の、こおろぎの変調。
うつくしかった羽根が痩せてきた。
目に見えて艶をなくしたからだは、もう男の盃へと飛び上がることもできない。
小さく切ってやった茄子をようやっと嘗めるようにして、そして鳴らない翅をこすり合わせるこおろぎ。

「…………」

どうにか冬を越せぬか。
どうにか長く生き永らえさせられないか。
ばかばかしいと思いながらも、望みを捨てられない男は、村人に無理を言って手に入れた美味い蜜とやらも食わせてみた。
暖めた石を近くに置いてやったりもした。
水を換え、草を換え――――だが、日に日にこおろぎは弱っていく。
今日など、それはいちども鳴いていない。

「……生きてくれ」

それはあの日、告げられなかった言葉だった。
逃げて、生き延びてくれと、あの関ヶ原で、そう言えば良かった。
最後まで誇り高くなどと、そんなきれいごとにごまかしてしまわなければ良かった。
ゆるいまどろみに落ちかけた彼が、たった一度教えてくれたふるさと。

(いつか……おまえにも、見せたい)

(水が、きれいで……おれは……)

眠りを奪うのがいやで、おやすみなされませ、とあのとき無理にさえぎった言葉の続き。
その言葉を、あのこえを、もう、たったいちどだけ聞けるならば、男は魔にでも魂を売るだろう。
つれて逃げれば良かった。
それを彼、は望まなかっただろうが、足を切っても、腕をもいでも死なせてしまうよりはマシだった。
勝てぬいくさと、自分だけは知っていたのに――――。

「鳴いて……声を聞かせてくれ」

膝を折った男は、呻くように祈った。



「 
殿 」



呼んでしまった、その名。
もうずっと、心に封じ込めたその呼び名。
堰を切ったようにあふれ出す感情を、男は堪え切れなかった。
鳴いてくれ。
聞かせてくれ。
たったひとこと、あなたの声を――――。



ころ……。



手のひらに乗せたこおろぎが、苦しげに羽を震わせて鳴く。

生きよ。

あの凛とした声に、そう命じられているような気がした。














いつものように野菜と酒を運んできたおんなは、男が腹を斬って死んでいるのを見つけた。
どうして。
野菜の入った籠を取り落とした女は、呆然と立ち尽くす。
ひとを呼びに行くまでもなく、男が絶命していることは明らかだった。
きちんと結われた髪。
遠い眼差しはもう見えず、ただ、安らかなかお。
どうして。
どうして。
涙さえも出ず、好ましく思った男のしかばねを見つめたおんなは、その枕上に無造作に投げられている薄様を見つける。
たった一行。
『殿が逝くので。』
そう、書かれていた。






女はふと、男の手のひらを見た。

くろい翅。

男の手に寄り添うようにして転がる――――それは、死んだこおろぎ、だった。


















    8月に関ヶ原・佐和山に旅行に行った折、思いついた話です。
    本当なら10月末の関ヶ原の戦いの日に更新したかったんですが、原稿だったので断念。
    代わりに、というと変ですが、殿の命日を狙ってみました。
    あまりにも感情垂れ流しなのでいかがなものか、と我ながら思いはしたんですが
    どうしても! 書きたかったので……つい。